寶林寺の歴史
寶林寺は、曹洞宗 岡崎市龍海院の末寺です。
龍海院は、模外惟俊禅師の「徳川氏の子孫が天下を掌握」との夢判断によって禅師に深く帰依した松平清康により、享禄三年(一五三〇年)に建立された、「是の字寺」として有名な寺院です。
これは、松平清康が二十歳の時に見た「左手に『是の字』を握る夢」を模外禅師が占ったところ、「『是の字』を握るは天下をとることなり(「是」を分解すると「日下人」と読める)」と答えたという逸話が由来となっています。
さて、寶林寺の創立は応永三年(一三六九年)三月、開基は元今川家の家臣、入道して一乾徳公座元と称した僧であると伝えられています。
なお、「豊橋寺院誌」では、「応永三年と今川家臣の間には年代的差異がある点から推して、応永創立は真言宗としての寺(六連の長仙寺末)の創建であり、その後再興改宗したのが徳公座元ではないか」としています。
弘治三年(一五五七年)には、今川義元が寶林寺正運あてに寺領を寄進しており、その寄進領は耕地ならびに山林約十町歩とされています。
そして元禄十六年(一七〇三年)二月七日、庸山仲公和尚の時に法地転格。
龍海院開山模外和尚より十五代法孫碧雲見龍和尚を勧請して開闢開山と仰ぎ、以後龍海院末、中本山となりました。
旧幕時代、寶林寺は衆寮で寺子屋を開き、村民の教化に尽力していました。
十三世 泰雲仙国和尚は高僧の名が高く、十四世 淳昌和尚、十五世 堅応和尚も著名な僧であったとされています。
第二次世界大戦中には元禄年間の梵鐘や半鐘、銅仏像三体など仏具什器の一切を供出し、戦後は農地改革で一町十六反を失いました。
寶林寺の現在
寶林寺の本堂は、応永創立(一三六九年)から時を経て寛保年間(一七四一~一七四四年)に再建しています。
(寛政年間の再建という説もあります。)
そして本堂の老朽化に伴い、平成二十四年に再建されたものが、現在の寶林寺本堂となっています。
本尊は元禄時代の釈迦如来像で、脇壇には十王尊と大元師明王、達磨大師像などを安置しています。
いずれの像も、平成二十四年の再建時に再塗装が施されました。
また、山門両翼に白壁の塀をめぐらせて境内の伽藍を囲んでおり、その山門石段下には前苑があります。
そこに池をうがち、石橋を架し、左右に島を築いて鎮守の白山権現と弁財天がまつられています。
境内の一角には、芭蕉の句碑(冬の日塚)があります。
『冬の日や 馬上に氷る 影法師』
これは、貞享四年(一六八七年)に天津縄手(豊橋市杉山町)で門人越人と共に保美の杜国を訪ねた際に詠んだ句です。